そら犬のエサ

ゆるいアニメとかマンガとか、ハードな音楽とか

『やがて君になる』を読んだメモ

やがて君になる』を最近読んだ。

 

 

覚えてるうちに面白かった箇所のメモ。

 

 

 

全体的な感想

あらすじとかテーマとか

人に恋する気持ちがわからない(けどわかりたい)主人公・小糸侑と、(訳あって)人からの好意が怖く、侑の「人を好きにならないこと」が好きな先輩・七海燈子の「歪な関係」から始まる百合。侑はだんだん(自分の)「好き」を発見していき、燈子先輩も人からの好意が受け取れるように変わっていく。(クソ乱雑なあらすじ)

 

変化していく人の間の関係や、(多元的な!)好きの形とか、恋愛関係より一歩手前のところにフォーカスを当てているところが面白い。(しかもあまり「うるさくない」のが偉い。語り方とか構図とかのおかげだろうか?)

 

読む前に「『やが君』は百合(笑)じゃなくてガチですよ」みたいなレビューを見て身構えてしまったが、「百合」はそれ自体が作品の目的というより、テーマを強調する手段という感じ*1で(多分)助かった(百合は百合だし、別に個人的に百合が嫌いというわけではないけど)。

 

なにを言いたいかというと、テーマは面白いし、もし百合という点で読むのを遠慮しているなら、ちょっと勿体無い気もする、ということ。意外と中心は普遍的なテーマだし、みんな楽しめるはず。(オタクあるある:自分が面白いと思ったものを一般的に面白いと錯覚しがち。まあ、一般化できると信じることはとりあえず大事だよね?知らんけど)

 

展開とか世界観とか

いろいろよく考えてるんだろうなぁ、という感想。謎に上からだが。

 

キャラクターの特徴づけとか、それぞれのイベント・話の意味づけとか、演出とかすごいはっきり・しっかりしている。特に文化祭の後から6巻の終わりまでの話、7巻(燈子の親友)佐伯沙弥香の告白の演出、最高だと思います。

 

何巻かの作者あとがきに「『やが君』は考察されやすい」みたいなことが書かれていたが、この辺のしっかりさが考察のしやすさ(とか読みやすさ)に繋がってるんだと思う。

 

逆にしっかりしすぎていて、特に話におけるイベントの意味が重すぎたり、人物の変化が急すぎたりしているような気もする。「この出来事でこの人物はこうなる」みたいな考えがあるんだろうが、(当たり前だが)大体の出来事でそんなにパキパキ物事は変わらないので、もう少し解きほぐして連続的な流れが欲しかった感じもある。まあ、出来事の象徴性が魅力的な作品でもあるので、野暮かもしれないが。

 

もう一つ、特に8巻の最後の話読んでて思ったのだが、もう少し読み手に想像の余地を残して欲しかった気もする。世界が閉じちゃってる感じ。世界観がしっかりしていることは世界が閉じてることとは違うはずだし、語られない箇所が魅力になることもあるのでは、とも*2。エピローグやサイドストーリー的なものは好きなんだけど、もうちょい「匂わせ」的な感じでよかったのでは、と思う箇所も諸所。

 

気になった箇所とかメモ

基本どの話も面白いのだが、後半(6巻以降)、前半が吹き飛ぶくらいに面白い。以下相当雑に後半ばっかのメモ。

 

7巻、沙弥香の「好き」の説明

修学旅行、ボート上での燈子と沙弥香のやりとりの場面。

「変わってしまうかもしれないもの(人)になんで好きと言えるのか?」みたいな燈子の質問に「「好き」には、たとえ変わったとしても好きな人であるだろうという信頼が含まれてる」みたいな返答を沙弥香はする。

 

まあ、「好き」ってそうかもね、と思う。(私はカレーが好きだが、きっと多少味が違っても好きだろうと信頼を含めてカレーが好き、としてる気がする*3。)

 

しかし、燈子を(変化も含めて)ずっと側で見てきて、1番理解している沙弥香の口からこの言葉が出て、なんか感動してしまった。話の運びのうまさ。そして、そんな言葉を聞いた流れで橙子が侑を思い出す描写で、泣いてしまった。心を引き裂く展開。

 

これはいい

 

8巻、侑の「好き」の説明とか

こちらはちょっと変で普通に面白い

 

「人を好きになること」がわからなかった侑は、最終的にわかるようになる。が、8巻の所々で語られる彼女の「好き」は(ここまであけすけじゃないが)「好きになってしまう」ではなく「好きになりに行く」というものらしい。恋は「落ちるもの」ではなく、「落ちに行くもの」ってことかな?

 

好きになろうと思ってたら好きになっちゃった、ってのは意外とわかる気もする*4し、そもそも「好き」の多様性は『やが君』のテーマだと思うのでなにも文句はないし、普通に面白い。視野の拡張。

 

ちょっと視点を変えて。こんな感じで何か(好き)になるために「なろうとする」ことが侑にとって重要なのだとしたら、8巻でやたらに「彼女」とか「恋人」とかいう言葉を侑が使おうとする理由がわかる気がする。侑にしてみたら、言葉を使って意識することが、恋人とかその関係を「本物」にするために必要なんだろう。実は徹底した侑らしさ。

 

こんな侑が「そんな言葉多様しなくても「侑と燈子(という特殊な関係)」でいいじゃん」のように燈子から言われる、というこれまた面白いシーンが8巻にある。これを聞いた侑は一旦はぐらかすような返答をして、後で(多分)受け入れている。(一旦置いとくの、なんかリアルだな。)物語の最後にして、侑や2人の間の次の変化が始まってるんだろうな、と思わせる箇所。

 

まとめ

以上。面白いから何度も読もう。

*1:作者のWiki読んでたら、なんかこんな感じのことが百合に惹かれたポイントみたいに言ってた…百合でやりたいことできてるんだねぇ。

*2:クソ余談だが、こういう語られない箇所作るの『ガンダム』の富野が天才的だよね。

*3:してないか?

*4:どうでもいいが私にとってのレッド・ツェッペリン