マンガ『明日ちゃんのセーラー服』6〜11巻、メモ
ちょっと前に『明日ちゃんのセーラー服』(「あした」じゃなくて「あけび」ですよ)6〜11巻を読んだのでその感想メモ。巻ごとというより総括的に。
粗いあらすじ
- 6〜7巻が夏休みの東京旅行回
- 8巻が短編+演劇部回
- 9巻は短編+合宿(お月見会)での苗代(と鷲尾)回
- 10巻は主に過去回想での蛇森(と戸鹿野)回
- 11巻は合宿での戸鹿野(と蛇森)回
感想メモ
以前、5巻まで読んで、なぜか(?)アニメ化された話以降の方が、絵のみではなくストーリー的・マンガ的に面白くなってるなあ、と思ったのだが、その流れが続いてる。(個人的には、特に10・11巻はすごい頑張ってる(偉そう)。)
まあ、いい要因なんて山ほどあるんだろうが、とりあえず
- 絵とストーリーの関係
- ストーリーの形式
の二つの観点から簡単なメモ。
絵を話に合わせろ!
↑の要求に応えている絵が中心になってきている。『明日ちゃんのセーラー服』の特徴の一つに(これは作者の博がイラストレーターであり、同時に(おそらくだが)『明日ちゃん』の登場人物(と彼女たちを描くこと)に対して異常と言えるほどの愛情を持っていることが要因だと思うが)、絵が作品の前面に出てくる、ということがある。
前面に出てくるとは、例えば一巻の冒頭の「ジャンプシーン」に象徴されるように、マンガの枠を取り払って、登場人物(大体主人公の明日小路)がドカーンっと画面いっぱいに描かれるようなことを指してる。
(冒頭シーンは、多分試し読みで読めるから読んでくれ。著作権とかよくわからんし、写真貼りたくない。)
絵自体はすごくいいのだが、あまりにも絵が前に出過ぎて話とのバランスが保てなくなってるような箇所や、話に対して絵の意味がよくわからないような箇所もよくあった。(イメージとしては、映画や舞台で、この文脈で?というタイミングで俳優が歌い出す感じ。)
まあ、絵が中心のマンガなんかな、と思っていたが、(実際は5巻あたりからそんな感じもあったけど)6巻以降、ストーリーの文脈に合った絵が描かれるようになってきた印象がある。つまり、絵とストーリーがあるのではなく、ストーリーに合った絵が描かれるようになってきた、ということ。入れるべき箇所で大きい絵が挿入され、表情とかもすごく文脈にマッチしている。
(個人的には、9巻の平岩蛍の話での絵が好き。ここで言ってる話とのマッチとしての良さではない気もするけど…)
絵は、もともといいので、それが話に合ってきたことで作品の良さが頑健になってきているのだろう。
ストーリーはテンプレで
一方ストーリーについて6巻以降の巻(8巻は例外)は、「級友の問題に主人公・小路が関わり、解決する」という形式に統一されていることが、5巻までと少し違う。要するにテンプレ的な展開が確立されている、ということだ。
これは一見マンネリのように思えるが、実際のところ話を無理のない安定したものにし、読みやすくすることに貢献しており、作品にプラスの効果を与えている。
そもそも(?)読んだ人ならわかるだろうが、主人公の明日小路は相当尖った、ある意味天才型の人間(10巻で級友・蛇森に「才能」と心の中で言われていた)であり、小路以外の登場人物も個性豊かに設定されているので、テンプレの枠に入れ込んだとしても、十分に面白い話になりうる(実際なっている)。逆に話の構造がブレると、読者としては、おそらくストーリーついていくのがシンドイし、作者も訳わからなくなりそう。
このようなストーリーの安定感が、良さに一役買っているところはおそらくあるだろう。
まとめ
要は、面白いよ、ということ。
もう少し個別の巻で色々書きたいが、まあ、個別に書きたいことはまたどこかで。